「今日の昼、500円で何食べようか」
そんな会話が、普通に成立していた時代があった。牛丼、そば、ラーメン、日替わり定食。店の前には「ワンコインランチ」の文字が並んでいて、500円玉一枚あれば、とりあえず昼飯にはありつけた。
それほど昔の話でもない。
2014年、新生銀行が会社員を対象に行った調査では、男性会社員の1日の平均昼食代は541円だった。銀行自身が、その金額を「ワンコイン+消費税8%の水準」と表現している。
当時は、掲載店で本を見せると対象のランチが500円になる「ランチパスポート」、通称ランパスまであった。2014年の新橋・虎ノ門版には100店舗が掲載され、通常700〜1,450円のメニューを500円で食べられたという。すでに札幌、宇都宮、名古屋、松山など全国30エリアに広がっていた。
500円は単なる価格ではなく、**「ランチはワンコインで食べたい」**という一つの基準だったのだ。
あれから十数年。いま、500円玉を握って街に出たら、何が食べられるだろう。
ランチ代は、ちゃんと上がっている
同じ調査シリーズを見ると、2024年の男性会社員の昼食代は平均709円。2014年の541円から、10年間で約31%上がった。
ただし、これは「外食ランチの平均価格」ではない。2024年調査の質問は、勤務日に昼食をとる人へ「平均すると一回いくらですか?」と尋ねたもので、弁当を持参した日や在宅勤務で自分で作った昼食は除かれている。外食だけでなく、コンビニや社員食堂なども含む「会社員が勤務日にお金を払って食べる昼食代」と考えるほうが近い。
それでも、会社員が昼飯に使うお金が増えていることは分かる。体感としても「ランチ1,000円」という看板を見て、昔ほど驚かなくなった人は多いだろう。
では、なぜ500円では食べられなくなったのか。理由は、それほど難しくない。
そりゃ、500円じゃ無理だよね
飲食店を一軒動かすには、食材だけあればいいわけではない。米、肉や魚、野菜、油、調味料。電気もガスも使うし、食材を運ぶ物流費もかかる。そして料理を作って、運んで、片付ける人も必要だ。
材料費も上がる。光熱費も上がる。人件費も上げなければ人が集まらない。それなのに、**「でもランチは500円のままでお願いします」**は、さすがに無理がある。
だったら800円、900円、1,000円に値上げすればいい。
……と思うのだが、話はそんなに簡単ではない。
「高い」と思っているのは客も同じ
店側の事情は分かった。
じゃあ、そのランチを買う僕らの財布はどうなんだろう。
2025年、日本で働く人の現金給与総額は前年比2.3%増えた。数字だけを見れば「給料、上がってるじゃん」と思う。
ところが物価の上昇を考慮した実質賃金は1.3%減った。厚生労働省が賃金の購買力を見るために使っている指標で、2025年も前年を下回った。
「実質賃金」と聞くと難しそうだが、意味はそんなに難しくない。
給料としてもらえる数字は増えた。でも、その給料で買えるものは減った。
ということだ。
だから店が「原材料も上がっているので、700円だったランチを800円にします」と言うのは分かる。客も事情は分かる。
分かるのだが、**「いや、こっちも苦しいんよ」**となる。
ここで、ちょっと不思議なことが起きる。
値上げした飲食店は儲かっている?
ランチは高くなった。だったら、その分は飲食店に残っているんじゃないか。
そう思いたくなる。
ところが帝国データバンクによると、2025年の飲食店の倒産は900件。前年の894件を上回り、過去最多を更新した。食材費や光熱費の高騰、賃上げによる負担に加え、競争があるため簡単には値上げできない中小・零細店の苦境も指摘されている。
ここでいう「900件」は、街から消えた飲食店すべての数ではない。帝国データバンクの集計対象は、負債1,000万円以上で法的整理となった倒産だ。
食材費が100円分上がったからといって、メニューをそのまま100円値上げできるとは限らない。「そんなに高いなら別の店にしよう」と思われるかもしれないからだ。
値上げしきれなかった分は、店側が負担することになる。
客は、**「ランチ、高くなったなあ」と思っている。一方で店は、「これでも足りないんです」**と思っている。
両方、本当なのだ。
じゃあ、誰が得してるの?
ここまで来ると、ちょっと聞きたくなる。
ランチが500円から700円、800円、1,000円になった。客の負担は増えた。でも店も苦しい。
じゃあ、そのお金はどこに行ったんだ?
残念ながら、「犯人はこいつです」と一人を指させるような話ではない。原材料、エネルギー、物流、人件費。店を動かすあちこちでコストが上がっている。
2025年には、燃料や原材料などの仕入価格上昇によって収益を維持できなくなった「物価高倒産」も949件と過去最多になった。そのうち飲食店は121件だった。
値段は上がった。
でも、客にも余裕がない。店にも余裕がない。
なんとも苦しい状態になる。
だったら、500円ランチに戻ればいい?
ここで最初の話に戻ろう。
500円ランチの時代には、もう戻れないのだろうか。
たぶん、簡単には戻れない。
でも、もう一つ考えたい。そもそも、本当に戻るべきなんだろうか。
500円でランチが食べられれば、客としては嬉しい。僕だって嬉しい。
ただ、もしその安さを維持するために、店が利益を削ったり、そこで働く人の給料を抑えたり、誰かが無理を引き受けなければならないとしたら。
それを「豊かな時代」と呼んでいいのだろうか。
もちろん、昔の500円ランチがそうやって成り立っていた、と言いたいわけではない。
ただ、「安ければ安いほど、いい社会だ」とは限らない。
そして、もう一つ。
僕らの中には今も、**「ランチならこのくらい」**という価格の感覚が残っている。
2014年には541円だった昼食代が、10年後には709円になった。商品の値段は変わっていく。でも僕らの頭の中にある「普通の値段」は、同じ速さでは変わらないのかもしれない。
だから1,000円という数字を見ると、反射的に「高っ」と感じる。
もちろん、感覚だけの問題でもない。実質賃金が下がっている以上、本当に財布の購買力が落ちている部分もある。
価格の感覚が追いつかない。財布も追いつかない。
その二つが、いま重なっている。
500円ランチが消えたことより
2014年、男性会社員の平均昼食代は541円だった。ワンコインランチが街にあり、「ランチパスポート」を片手に500円の店を回ることさえできた。
あれから十数年。ランチの値段は上がった。給料も、数字の上では上がっている。でも物価まで考えると、僕らが買えるものまで同じように増えたわけではない。そして飲食店側にも、値上げすれば全部解決するほどの余裕はない。
こうして並べてみると、500円ランチが消えたこと自体が問題なのではないのかもしれない。
むしろ気になるのは、値段が上がったときに、僕らの財布が一緒についていけているかだ。
店が無理をして500円で出してくれる社会に戻る。それよりも、働く人にはちゃんと給料が入り、店にもちゃんと利益が残る。そしてランチの値段が上がっても、僕らの生活まで苦しくならない。
500円ランチの時代には、たぶんもう戻れない。
でも本当に目指したいのは、500円に戻ることではなく、
値段が上がっても、ちゃんと払える僕らになることなのかもしれない。
日本を1ミリ動かす
この記事を読んで、何かひとつでも引っかかったことがあったなら。
納得でも、違和感でも、疑問でもいい。少し考えた。誰かに話したくなった。自分の生活を振り返った。
その小さな変化を、ここでは「1ミリ」と呼びます。
[ 日本を1ミリ動かす ]
出典・参考資料
・SBI新生銀行「2014年 サラリーマンのお小遣い調査」
https://corp.sbishinseibank.co.jp/ja/news-archive/news-archive1/news20140626103091/main/0/link/140626okozukai_j.pdf
・SBIグループ/SBI新生銀行「2024年 会社員のお小遣い調査」
https://www.sbigroup.co.jp/news/pr/pdf/2024/0628_a.pdf
・新橋経済新聞「新橋・虎ノ門版『ランチパスポート』」
https://shinbashi.keizai.biz/headline/1537/
・厚生労働省「毎月勤労統計調査 令和7年分結果確報」
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/r07/25cr/dl/pdf25cr.pdf
・帝国データバンク「『飲食店』の倒産動向(2025年)」
https://www.tdb.co.jp/report/industry/20260113-insyokuten2025/
・帝国データバンク「『物価高倒産』動向調査(2025年)」
https://www.tdb.co.jp/report/economic/20260114-bukkadaka2025/